『人魚姫』の考察という名目の走り書き
2018年5月20日 趣味 コメント (1)1、人魚の話
日本における人魚と言えばどっちかといえば人面魚といった趣の怪物である。
少なくとも某アンデルセンの創作童話『人魚姫』に登場する、美女の上半身に魚の下半身を持つ幻想的な亜人のイメージとはかけ離れていると言える。
日本の人魚は、マニアのありきたりなコレクションとして有名だ。
人魚のミイラといえば「猿と魚のはく製を繋ぎ合わせた偽物」だとして結構ポピュラーだと思われる。
比丘尼伝説も有名か、人魚の肉を食べて不老不死になった女性の話だ。家族や友人を次々喪っても死ぬことができない不老不死の女はついに孤独に耐えきれず、洞窟に引き籠ってからずっと出て来なくなったという(今も引き籠っていると言われている)。
この比丘尼伝説は夢枕獏原作の『陰陽師』という邦画でも取り上げられており、この作品はあの大陰陽師・晴明や古典で有名な博雅の三位を主人公に据えている名作なので興味があるならオススメしておきたい(ダイマ)。
前置きとその蛇足が長くなったが、ようするに日本における人魚とはアニメや漫画に登場する(『人魚姫』のイメージに準ずる)麗しい人間の隣人である存在ではなく、れっきとした怪物として描かれる。
僕は出典を忘れてしまったが、舟幽霊やローレライのように船乗りに怖れられる人魚の昔話もあったような気がする。
また、比丘尼伝説にあらわされるように不老不死の象徴、好事家がミイラを集めるような一種のマジックアイテムとしての側面も色濃い。
では、アンデルセンの『人魚姫』と日本の人魚はまったく別の発想から生まれたクリーチャーなのか、というのが今回のテーマである。
結論から先に言うと「『人魚姫』における人魚も実は怪物(のような存在)として描かれている」。
2、人間と人魚の違い、キリスト教における霊魂思想
日本人にはたいへん馴染みのない話なのだが、キリスト教において人間以外の生き物は魂をもたない。
僕ら日本人…正確にはアニミズム思想に親しんでいるような日本人は、犬や猫にも魂があり、一寸の虫にも魂があり、一粒の米にも魂がある世界観の中で生きている。
僕はキリスト教専門の勉強をした事がないので、どの宗派までが「人間しか魂をもてない」世界観に生きているか具体的には例示できないが、コテコテのキリスト教徒(それこそ創作に表される狂信者のような)がいるならば少なくともこの世界観の中に生きている。
昨今は近代社会を中心にしてこの霊魂の扱いは結構緩くなっており、人間と同じ哺乳類ならば魂をもつ事を神に許されているという解釈も広がっている。
犬猫のような哺乳類のペットを実の家族のように扱う文化はこれに相当し、一時期過激化したクジラやイルカの保護運動もこれである(クジラやイルカは哺乳類である)。
僕は魂をふわふわしたよくわからないものとして解釈しているので何とも実感がわかないのだが、人間が同族意識から同情・憐憫・慈愛の感情を他種族に向ける上で魂の有無というのは重要であるらしい。
コテコテのキリスト教世界観において人間以外の生物は神(人間の神、と注釈すべきかも)から人間の糧として創造された物なので、魂をもたない。
怪物ベヒモスはそのまま「最後の晩餐に食事として並べられる予定の家畜」として創造されているので例としてわかりやすい。
これは僕の持論なのだが、この思想は「魂をもたない家畜には同情しなくていい(だから食べていい)」という意味で、頂点捕食者としての人間への免罪符としての考え方なんじゃないかと思っていたりする。
近年たまに見る行き過ぎたベジタリアンなどは過度に動物に同情しすぎた結果であるし、前述のイルカなど言うまでもない。
キリスト教とは自罰的な宗教であるので、食べ物に魂があるなどと説いたら食事に罪悪感を感じるかもしれないので、その逃げ道としてこんな思想を生み出したのかもしれないという話である、もちろん断言する根拠が少なすぎるのでただの憶測である。
誰が言ったのかは忘れたが「家畜には神がいないが、もし家畜の嘆きを聞き届ける神がいるならばその主は人間を許さないだろう」とは上手く言ったものだ。
またもや前置きが長くなったが、人魚もまた人間以外の生き物であるためキリスト教世界観では魂をもつ事を神に許されてはいない。
そしてアンデルセンもキリスト教圏に生まれた作家である。
人魚姫は魂をもたない。
よって、人間と人魚の違いとは魂の有無となる。
これをよく覚えておくと、アンデルセンの『人魚姫』が一層味わい深い物語になる。
3、人魚姫の最期
人魚姫は「王子と結婚しなければ死ぬ」「死にたくなければ王子を魔女の短剣で刺殺さなければならない」という二重の呪いを負って人間に変身した。
『人魚姫』の世界において人魚は人間よりも長寿で、人間からしたら不老不死のような存在だった。
ただし彼らは魂をもたないので、彼らの死とは天上・地上からの完全な消滅を意味する。
キリスト教の救いとは死後の救いで、善き人々は主によって復活して天国に迎え入れられる(面倒くさいので「いい事をしていたら天国に行ける」くらいの解釈でよい。大体合ってる)のだが、死んだ人魚にはそんな救いはないのである。
キリスト教的救済っぽい解釈をすれば、人魚姫は「王子と結婚できずに泡となって死に、天国にも地獄にも行けず完全消滅する」か「王子を刺殺して人魚に戻り、長寿を謳歌した後に死に、天国にも地獄にも行けず完全消滅する」かという「死か、それとも死か」と言わんばかりの二択を迫られていた事になる。
どこかのアンデルセンは「人魚姫は滅茶苦茶ハイテンションで執筆した。反省している」と言ったそうだがこれはそういうレベルの詰みの状態で、人魚姫はこの選択肢からどちらを採ってもバッドエンドだったのだ。
周知されている通り、『人魚姫』の結末において彼女が採った選択はどちらでもない第三の選択肢だった。
「王子を殺さず、自分ではない人間のお姫様と結婚する彼を祝福しながら、彼のために身をひく」事。
その結果呪いに殺されて消滅しても、王子が幸せになれるならばそれでいいという自己犠牲が彼女の選択だった。
またしてもコテコテのキリスト教世界観の話になるが、あの世界観において自己犠牲とは人類の罪を背負って磔刑を受け入れた某大工の息子さんを象徴する究極の善行で、人ならざる身でありながらこれを実践してみせた人魚姫は、その功績を認められて神からの祝福を受ける事に成功した。
「泡となって消える前に、人魚姫はその自己犠牲を神に称えられて魂を与えられ、死後に風の精霊として天国に迎え入れられた」というのが『人魚姫』のハッピーエンドである。
風の精霊というのは天使、そして天国にいる人間の魂よりも格下の存在なのだが、功績を認められていけばやがては天使にとどまらず人間の霊にまで格上げされて、永遠と栄光の国での幸福を約束されるようになれる。
風の精霊はやがて人間になれるのである。
なぜ神が人魚姫を人間の霊ではなく風の精霊からはじめさせたのかは解釈がわかれるところだが、僕はそれまでに人魚姫が犯した罪による減点なんだと思っている。
人間ではない罪、
人間ではない身で人間になりたいと思った罪(『人魚姫』は書籍によって「人間の王子と結婚すれば式典で神父から洗礼を受けられるので魂を得られる、そうすれば人間の妻としてずっと王子と暮らせる」事も目的にしている場合があるらしい。つまり利己的な理由から神の愛にあずかろうとした盗みの罪とでも言うべきか。僕はそういう書籍もアンデルセンの原典も読んだ事がないので、ここの正確な解釈が気になるならば是非とも自分で調べてほしい)、
その手段として魔女と魔法を頼った罪(いわゆる魔女裁判においては魔女の協力者の人間も同じく魔女だとされる。魔女である事は火刑にされるほどの罪で、キリスト教では死体が焼失すると主に復活させてもらえないので天国にはいけない。復活のために必要な肉体を焼かれるほどの罪とは、あの世界観においてはこの上がない極刑にあたる訳である)、
この三つ。
一番最初の罪は僕による完全な言いがかりであるが(大工の息子さんが罪を贖ってくれたので人間に罪はないが、人間以外の生き物にはそれが適用されていない、という言いがかりである)、一番最後の罪は「人間であっても神の寵愛を失くす」ほどの重罪であるので、ここでかなりの減点が発生していると思われる。
本来ならば、「魂を与えた上で地獄に落とす」という結末になっても(あの世界観において)違和感がないくらいなので、風の精霊として天国に迎えられたという結末は最善のハッピーエンドだったのだ。
それでもキリスト教に馴染みない人々にとっては釈然としない気持ちだろうが、これほどのチェックメイト状態からこの程度でもハッピーエンドにこぎつけられたのならば絶賛できると僕は少なくとも思っていたりする。
『人魚姫』は「魂のない怪物が人間になろうとした物語」で、「愛にめざめた怪物が人間になる機会を与えられる」ハッピーエンドで終わる。
4、余談
最後に、『人魚姫』から比丘尼伝説、つまりキリスト教世界観の人魚から日本の人魚の話に戻る、が、ここからは持論まみれなので前もって警告しておきたい。
比丘尼は人魚を食べて不老不死になったという。
不老不死の怪物とはしばしばリビングデッド、生きた死者に喩えられたりする。
肉体は生きているが魂は死んでいるので、いくら肉体を傷つけても本体である魂が壊れる事がなく、よって不死身であるというのがリビングデッドの理屈の一つであるが、僕は比丘尼もそうなのではないのか、と思うのだ。
魂のない人魚の肉を食べた比丘尼は、魂を失ったので老いる事も死ぬ事もなくなった、という考え方である。
前述しているが、アンデルセンの『人魚姫』においても人魚は魂がないからか不老長寿で、その寿命の長さは普通の人間からすれば「不死とほとんど変わらない」そうだ。
比丘尼は人魚になってしまったのではないか、という恣意的な解釈を僕はしている。
比丘尼伝説は、『人魚姫』の逆転である。
人間が人魚になって、あの世(天国)に行けなくなる話だ。
イスラム教の教えの意訳のうろ覚えでこの話題を終える。
「風は水をあやつることを神に許可された。水は泡立ち、蒸気となり、空気となり、風となって、天にひろがる」らしい。
しゃぼんだまの歌は若くして死んだきょうだいを偲んだ歌であるというのは有名な話だ。
しゃぼんだまは割れて、それはきっと風になって空にのぼっていくのだろう。
天は奪うばかりだと誰かが言った。
死後や死んだ先にある報いを信じて生きる事はたった一度の人生を侮辱する考え方だ、と思わないでもないが、そういう思想で救われてきた人間と今も救われている人間がいるのも事実らしいので、難しい話だと思う。
何十年も生きた人間が「死んでも来世があるから死は怖くない」と言うのは白々しいかもしれないが、若くして無念そうに死んだ人や一生を苦しみ抜いて死んだ人間が「死後はせめて幸せでありますように」と祈る親族の気持ちは甘えではないだろう。
・あとがき
Q.なんでこんな事書いたの?
A.チラ裏というかメモ。文字にしておけばいつか読み返せるので反復に丁度いいから。
ここまで読んでくださった人に感謝を。ありがとうございます。